少年マガジン

June 27, 2009

内田勝さんを偲ぶ会

Uchida_magazine 永遠『少年マガジン』

 

 

 







 

 

 

昨夜2009年6月26日、銀座コートヤード・マリオット銀座東武ホテル(旧銀座東武ホテル)で、内田勝さんを「偲ぶ会」が開かれた。藤子不二雄(A)先生、楳図かずお先生、永井豪先生、森田拳次先生など多数の方がお越しになった。
 

内田さんの生前の映像や写真を見ていると亡くなって1年も経ったなんて信じられない。三五館の星山社長の挨拶にあったが、人は二度死ぬ、と。一度は肉体の死、そしてもう一つは、二百年くらいたって皆の記憶から無くなった時に、二度目の死を迎える。逆にいえば、それまで内田さんはその偉業と共に我々の記憶の中で生きているのだ。



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April 11, 2009

一歩もあとに帰る心なし...芭蕉

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「コミックボックス」少年マガジン特集'99/1号

 

 

 

 

 

以前、といっても2007年1月にもブログで取上げたが、改めて読んでみた。以下、内田勝さんのインタビュー抜粋。

『 好奇心の一語に尽きます。「猟奇」や「偏奇」ではなく、自由で自然体のまま「珍奇」を楽しみ、「新奇」に心を踊らせる。なにか新しいこと、珍しいこと、この世に2つとないことを常に探し求める。具体的には、人に会う、活字を読む、音楽を聴く、映画やアニメを観る。旅をする。骨董を蒐める。酒を飲む。とにかく何かを徹底的にやることを通じて、自分以外の人と共感し合える場が広がるわけだから、これを"道"といってもいい。』

下記は、1970年1月号の「週刊少年マガジン」巻頭グラビアで、「1枚の絵は1万字にまさる」(コピー 大伴昌司) というグラビア時代を宣言した。

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June 14, 2008

Y字路が示唆する脇道人生のススメ

『冒険王・横尾忠則』 世田谷美術館

 

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5月28日 (水曜日) のことは一生忘れないだろう。この日の前夜 行きつけのBAR「RAKE」 (西麻布) で美味しいカクテルを飲んだ。たった3杯しか飲まなかったのに、翌日は滅多にない二日酔いだった。
 

ワタシは、いくつかの原稿を仕上げると午後から世田谷美術館の本展を見にいった。胸騒ぎはしなかった。でも、横尾忠則展に行くか恩師であり入院中だった内田勝さんの見舞いに行くか悩んだ。横尾忠則さんと内田勝さんは、黄金期の週刊少年マガジンで9回も表紙デザインの仕事を一緒にしている。だから、まず横尾さんの展覧会が先だった。そして、図録を5月31日(土曜日)に内田さんにお見せしようと考えたのだ。

...しかし、5月30日(金曜日)...17時30分 ワタシは 内田さんの訃報を東大で聞いた...そこから 先はカオスだ。いまだに、カオスなのだ。とにかく、その場を離れてタクシーに飛び乗った!でも、飛び乗ったところでどこにも行く宛てはない... 止め処なく涙が溢れてくる。悲しいというより悔しい... 時間よとまれ!
 

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そこへ、目に飛び込んできたのが、左の光景だったのである。これは、水曜日に見た横尾さんの「Y字路」のモチーフと酷似していた現実の風景なのだ!

あまりにも似ているので、運転手さんに「ここで降ります」と告げた。

 

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横尾さんは、2000年に郷里の兵庫県西脇で、ふとした偶然からY字路に出会う。

複数のY字路を描いているが、左は「宮崎の夜 台風前夜」(2004年)という作品

 

 

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↑ 「深夜の晩餐」(2006年)

右手の警官が、中央で餌を食べる猫をシンメトリーにして泥棒らしき人物を追っている赤い夜の作品だ。

 

 

 

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↑ これは、偶然発見した前述の写真 (結局、この真ん中の焼き鳥屋にはいった。もともとは画廊だったらしく、出入り口は3つある) を元に、ワタシがコラージュしてみた。ワタシの作品は、人ではなくペンギンが右往左往しているのだが...

 

 

内田勝さんという 道しるべを失ったワタシは、いまだにY字路の前に佇んでいる。しかし、いつまでも くよくよしていられない。あるいは、左に進んでも右に進んでも、真ん中の建物が第三の道を示唆してくれるのかもしれない。そんな気持ちになりつつある。内田さんがいつも「脇道にこそ人生がある」という言葉を思い出し、ワタシは再び進もうとしてる。



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March 09, 2008

王道を目指すなら、まず奇の道に学べ

uchida-1 「奇」の発想―みんな『少年マガジン』が教えてくれた
いまさらながら、内田勝氏の本をとりあげる。10年以上、公私共にお世話になっている伝説の編集者の半生とその思索を描いた本である。

改めて内田氏の本を読むと、「巨人の星」「 あしたのジョー」のヒット、大伴昌司
と「ウルトラマン」の発見、「 仮面ライダー」によるテレビ・玩具とのメディアミックスの先駆け、はたまた 切手モデルガンブームの仕掛け人など、その偉業の方が先にきてしまうが、実は内田氏の発想の原点に 奇なるものへの憧憬と実践があった。もともと教育者を目指していた内田氏だから、その取り組みは真摯とも言える熱情により 数々のヒット作として結実するのだ。

ここには、ヒットの帝王学が記されている。エクタメ業界関係者は、必読。



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September 08, 2007

具体的な夢をみたら実現した

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『情報社会 きみたちのあした』企画構成・大伴昌司

 

 

 

 

 

 

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天才・編集者でありSF評論家でもあった大伴昌司氏の特集は、いつも少年マガジンの巻頭で楽しませてもらった。

この特集は1969年4月13日号で、DNAを操作し、動物を小型にする。新しいペットの誕生だ。ドライブイン病院。車から降りることなく治療が一瞬で終わってしまう夢の病院など子どもだけでなく、大人になったいまでもワクワクする想像の数々に大伴昌司氏の天才を感じざるを得ない。



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January 01, 2007

デザインに主張があった頃

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「コミックボックス」少年マガジン特集'99/1号

1970年5月24日号から9月13日号までの約3ヶ月半近く、少年マガジンの表紙デザインを9回分横尾忠則が手がけた。あしたのジョーから鉄腕アトムまで、きちんとアートになっている。しかし、実は10回目のデザインは没になったものの存在する。

1971年の新年号。赤地に金文字のマガジンロゴが入り、谷岡ヤスジのムジ鳥が「バカ、糞して寝ろ!」と絶叫している。

 

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