大伴昌司

September 15, 2012

【奇っ怪紳士!怪獣博士!大伴昌司の大図解 展】一枚の絵は一万字にまさる!

IMG_0006_edited-1【奇っ怪紳士!怪獣博士!
    大伴昌司の大図解 展】
   ……一枚の絵は一万字にまさる……

2012年7月6日(金)〜9月30日(日)
弥生美術館
文京区弥生2−4−3
03-3812-0012 
 
 
 
 


この展示が実現されたことについては、弥生美術館のキュレイターであり、かつ大伴研究本「怪獣博士! 大伴昌司 ---「大図解」画報」(河出書房新社)の著者でもある堀江 あき子さんの不断の努力と大伴さんへの愛に敬意を表したいと思う。

思えば、展示までたいへんな道のりがあった。大伴さんの原画の散逸や震災による遅れもあった。(本当は昨年の7月予定だった)

そして、大伴昌司のお母様 四至本アイさん(102歳)のバックアップも大きかった。確か昨年の6月ごろ四至本アイさんのお宅(いまも残る大伴さんの仕事場の横)で対策会議をやったのが懐かしい。いずれにせよ、ここまで体系的に材料が揃った展示は珍しいのではないか。大伴さんは生前、自分の名前は歴史から消え去るだろうと予言していたのが唯一外れた予言だった。21世紀になっても現代アーティスト村上隆さんが、その功績をたたえる展示を行ったり、今回のこのような展示が行われるのだから。それにしても、36歳の急死(1973年)は天才ゆえと考えざるを得ない。

私の恩師でもある少年マガジンの天才編集長 内田勝(故人)さんとのコンビは、子ども向けマンガを万人のものにし、大伴さんとの巻頭ビジュアル・シリーズは、その後のビジュアルマガジンの先駆けにもなった。内田さんは、1971年に「ホットドックプレス」の創刊編集長を務め、そのコンセプトを定着させた。

今回、その原点となった「週刊少年マガジン」の巻頭ビジュアルの原画なども多数展示されている。どのアイデア、レイアウト、クリエイティブをみてもまったく色あせていない。むしろ歴史の長さで、その問題提起(未来社会への警告など)はよりアクチャルなものになっている。

IMG_0002IMG_0003













↑ 大伴さんが想像した怪獣の仕組み図版。限定クリュアファイルやポストカードとして弥生美術館で販売している。

大伴昌司(1936〜1973)は、1960年代後半から70年代前半にかけて、少年雑誌の巻頭グラビアや図解記事の企画・構成・レイアウトを手がけたほか、ミステリ雑誌・SF雑誌のライター、テレビ脚本、映画評論など、多彩なジャンルで才能を発揮した希代のクリエイター。

IMG_5313IMG_5289












↑ 大伴直筆によるレイアウト。


また大伴は、「ウルトラシリーズ」に登場する怪獣の性格や体内構造を詳細に設定し、少年雑誌で特集を組み、「怪獣大図解」「ウルトラ怪獣入門」等の書籍で紹介して怪獣ブームの火付け役となりました。当時彼は、"怪獣博士"の異名で多くの子供達に親しまれ、様々なメディアで寵児となっています。

IMG_5292IMG_5293












↑ 南村喬之さんや石原豪人さんの原画も展示!!

本展では、少年マガジンを中心とした少年雑誌で、怪獣や特撮映画、SF、恐怖文学、CM、劇画など多彩なテーマを先駆的なビジュアル構成で紹介し、多くの人に影響を与えた大伴流〈大図解〉の世界を、ラフスケッチや構想メモ、南村喬之や柳柊二、石原豪人、水氣隆義らの挿絵原画、当時の雑誌資料などからご紹介。

48a55dab











↑ 展示のキャッチコピーにもなっている「一枚の絵は一万字にまさる」は、1970年1月号の「週刊少年マガジン」巻頭グラビアで、大伴昌司がつけたコピーでその後のグラビア時代(ビジュアルマガジン)の幕開けを宣言した。


IMG_5306IMG_5304












↑ 左:雑誌『COM』(虫プロ商事)1967年7月号「怪獣ブーム総まくり」この座談会では大伴さんを始め内田さん他 少年サンデーの小西編集長など出席している。

右:『ミステリマガジン』(早川書房)1966年7月号「アン*ルから逃げ出した男」(著 大伴昌司)

若き日に寄稿したミステリ同人誌や自ら編集発行した恐怖文学同人誌、本格的なSF入門書「SFの手帖」、日本SF作家クラブ事務局長として国際SFシンポジウム開催に尽力した際の資料など知られざる仕事も取り上げている。 
  
IMG_5317IMG_5285












記念写真は、左が四至本アイさん、右が内田勝さんの奥様。



tabloid_007 at 23:49|PermalinkComments(0)

November 12, 2011

雑誌【idea (アイデア)】(2011年11月号):「20世紀 エディトリアルオデッセイ」 第3回『大伴昌司と内田勝の視覚革命』 編集 赤田祐一

雑誌アイデア表紙idea (アイデア) 2011年 11月号 [雑誌]
誠文堂新光社(2011-10-08)










今回、わが師である内田勝さんに関するインタビューをうけたので、ご報告まで。

ことの発端は飛鳥新社で辣腕をふるっている編集者 赤田祐一さんから夏の終わりに連絡があった。「大伴昌司と内田勝」の仕事をとりあげたいという。

ここ数年、村上隆がクールジャパンの元祖として大伴昌司さんを紹介して以来  特集が組まれることが多々あった。しかし、黒子である講談社の編集者であった内田勝さんと並列して特集したいというのは初めてだった。

さすがに赤田さんである。赤田さんは、かの有名な「磯野家の謎―「サザエさん」に隠された69の驚き」(飛鳥新社(1992-12-18))を手掛けた編集者で内田さんも生前より一目おいていた。そんな赤田さんの依頼を断る理由などない。

さっそく、半日かけたインタビューがはじまった。話は赤塚不二夫から宮内勝典まで不思議なリンクによって話は続いた。

その中で、私のパートは内田さんが考えるプロデューサー(編集者であり、キュレーター)7つの条件という形にまとめてもらった。他にも大伴内田のタッグがいかに70年代の子供や大人に影響を与えたかがわかる取材っぷり。

構成と文は赤田祐一さんとばるぼらさんが担当。「20世紀 エディトリアルオデッセイ」第3回『大伴昌司と内田勝の視覚革命』と題して下記のような内容である。

・ 大伴昌司と内田勝の世界  対談 赤田祐一 x ばるぼら
・ 二人の歩んだ全仕事
・ 母・四至本アイが語る大伴昌司 像
・ 「奇」の編集術 香川眞吾
・ 内田勝流、プロデューサー7つの条件 福田淳
・ 図解の系譜
・ 大伴昌司のレイアウト感覚「全部先割り、全部絵解き」 赤田祐一
・ 編集会議にみる内田勝の特質「編集 =考え抜くこと」赤田祐一

123












ちょうど、年初に四至本アイさん(101歳!)とお会いして岡本太郎と幼少期の話など伺っていたので、今回の取材は感慨深いものがあった。

282760317











さて最後に、内田勝さんが亡くなった2008年に作家の宮内勝典さんが東京新聞に書かれた追悼文を抜粋したいと思う。


「放射線(東京新聞」 2008年6月6日(金)夕刊

『巨人の星』『あしたのジョー』を生みだした名編集長・内田勝さんが他界した。「少年マガジン」を時代の象徴へ育てあげていった伝説の人だ。私が出会ったときはすでに出版社の重役であったけれど、ホーキングの宇宙論や進化論について、目を輝かせながら一晩中でも語りつづけるような人であった。無類の読書家で、広汎な知的好奇心にあふれるルネサンス的な精神があった。自分もそのように成熟してゆきたいと思わされる稀有な大人だった。

 私は師をもたないが、ひそかに私淑してきた人物が二人いる。その一人が内田さんであった。かれも不思議なやりかたで一人の作家を育ててくれた。私がニューヨークの片隅にこもって『ぼくは始祖鳥になりたい』という長編小説の連載をはじめると、毎月、段ボール箱いっぱいの書物を航空便で送ってくださった。日本語の本に飢えていること、資料が必要なことを察してくれたのだ。しかも私がなにをやろうとしているのか、小説のこれからの展開を鮮やかに見通した本ばかりであった。雪が降りしきる異国の地下室で、日本文学の文脈とは異なる小説を書きつづけながら、母国に一人だけは理解者がいると感じていた。航空便で太平洋を越えてきた書物は、ゆうに三百冊に及んだ。

 そんな無償の親交が二十数年つづいてきたが、先達はついに逝った。列車が駅を通り過ぎるように、一つの時代が遠ざかっていく。この私的な追悼を書き終えてから葬儀に出かける。『あしたのジョー』を愛読していた一人として野辺送りをしてこよう。

(宮内 勝典=作家)



tabloid_007 at 18:45|PermalinkComments(0)

May 07, 2011

「水木しげる 妖怪大画報」:1960-70年代に描かれた『週刊少年マガジン』の巻頭口絵の世界

gege水木しげる 妖怪大画報
著者:水木 しげる
講談社(2008-05-17)











水木しげる大先生が、「週刊少年マガジン」の巻頭グラビアで描いた1970年前後の稀少な仕事をまとめた本である。もちろん、当時の内田勝編集長と大伴昌司の企画である。「世界はこうしてはじまった!!天地創造」(1966.9)とか「人魚の秘島」(1969.9)とか、いまでもワクワクするようなイラスト満載である。

さて、当時から半世紀が過ぎ、2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が起こった。この未曾有の出来事に対して、ニューヨークタイムズ(日曜版)が水木先生に挿絵の依頼をした。日本では入手困難だが、下記のようなイラストが掲載された。

KPOKPOK












この"手"が絶望的だとして話題になったが、その後いろいろな人にこの絵を見せてどう思うか訊ねて回った。すると不思議なことにこの絵は見る人によって実に様々な感情を想起させることが分かったのだ。

よく見ると波の大きさに対して、"手"が異様に大きいことから、妖精ではないかとか、人がこの"手"を引っ張り上げられるかが試されるとか、さまざまだった。

きっと神様がテストしているのだと思う。


そして、もう一枚。私が企画した【SAVE MIND, 100 CREATION】にも描いて頂いた。

「生きなさい」っていうメッセージ。シンプル。力強い。

P5071365-S













その翌週の「週刊文春」で先生のコメントが掲載されていた。
「生きていれば どうにでもなる。(中略) 自分だけが生き残ったとしても悲観せずに生きるんです。死んだらいかんですよ。」

276540868












なるほど、だから「生きなさい」なんだ。



tabloid_007 at 18:49|PermalinkComments(0)

April 24, 2011

ムック本「リミックス少年マガジン大図解」(1992):内田勝と大伴昌司の点と線

IMG_0002-ssIMG_0001-ssIMG_0003-ss











リミックス少年マガジン大図解 第1巻 (KCデラックス 286)
リミックス少年マガジン大図解 第2巻 (KCデラックス 286)
リミックス少年マガジン大図解 第3巻 (KCデラックス 286)

講談社(1992-04,06,08)

昨年2010年6月、講談社 天才編集者 内田勝さんの二回忌が終わり、奥様からそろそろ書斎の整理をしたいという依頼を頂いた。

早速、内田家のある石神井公園集合ということで、スタッフを招集した。ところが、当日はどうした訳か人身事故があって西武池袋線がビクとも動かない。遅れること2時間。ようやく集合した我々は、かつて週刊誌の取材で書庫で寛ぐ内田さんの額入り写真が飾ってある、その書庫の中を探索した。

さすがに書庫に入りきらないダンボールが70箱近くあり、さらにその書庫部屋の本、本、本である。まずは、仕分けするためにデジカメで棚ごとに背表紙を撮影していく。それを元にリストにしようと考えたのだ。

半日ががりで、ようやく作業も終わり帰途についた。翌日写真データをみて驚いた。書庫の前後だけ写真が写っており、残りはまったくデータがない!撮影しながら確認したのでそんなはずはないと何度も確認したがなかった。

不思議な目に見えない力によって、廊下に溢れたダンボールを倉庫に収納することができた。しかし、いまだに書庫の本はそのままだ。まだ持ち出さない方がよいのだろう。

ダンボールの中から、1992年に発売された大伴昌司が責任編集した週刊少年マガジンの巻頭グラビア特集のムック本が数多くでてきた。いま、それらをしみじみ眺めながら、先日 久しぶりに訪問した大伴昌司さんの仕事場のことを考えている。

↓ 「怪獣博士」の異名をもつ夭折した天才編集者 大伴昌司のお母様である四至本アイさんにお会いした。101歳でますますお元気! (2011.0422)

282760317

tabloid_007 at 16:26|PermalinkComments(0)

February 06, 2010

大伴昌司の仕事場は、いまも少年の興奮がある。

ultraウルトラ怪獣大図解―大伴昌司の世界
著者:大伴 昌司
販売元:小学館
発売日:1995-03









昨年2009年11月6日に、NHKの方の案内で故 大伴昌司さんの仕事場に連れて行ってもらった。 大伴昌司さんいえば、1967年に週刊少年マガジン 編集長 内田勝さんとタッグを組みウルトラブームや巻頭グラビアで一世を風靡した天才である。天才ゆえか36歳の若さで1973年に夭折する。

今回、大伴さんのお母様(至本アイ 100歳 お元気です)にも御目にかかることが出来た。左下のイラストは岡本一平氏が描いた貴重な作品。

探検隊のメンバーのリーダーは、映画監督の河崎実監督。

OKAMOTOKAWASAKIcool










左下は、劇作家であり、最近「折り紙哲学者」でもある西田シャトナーさん。
みんな一癖も二癖もある綿々なのに、大伴さんの部屋はそのすべての好奇心を満たして余りある品揃え。セブンからゴジラの撮影風景から横尾忠則の東レクのポスターから、藤圭子の保存版マガジンまで!趣味に生きて仕事に生きて、コカコーラをがぶ飲みしながら、天才は我々に男の子の興奮をすべて遺してくれたと思う。

帰り際、お母様が「今後も大伴をよろしくお願いします」といって三越の御土産まで頂いた。その愛情の深さ、その子どもへの愛、涙が出そうになった。

NISHIDAFUJIKO


tabloid_007 at 21:30|PermalinkComments(0)

October 04, 2009

怪獣博士の面目躍如

IMG_0001 『話の特集の特集 100号記念臨時増刊』昭和49年

 

 

 

 

 

 

先日、銀座で「銀座界隈隈ガヤガヤ青春ショー」という展示会の中で和田誠さんが赤塚キャラをモチーフにしたダリ風イラストなど1960年代中盤の「話の特集」の版下が展示してあり、そのことを知人に話したら、早速1974年に発売された「話の特集100号」を貸してくれた。

中でも怪獣博士・大伴昌司の「怪獣ひとすじ」というコラムが面白かった。いまでは多少認知されているが、怪獣の着ぐるみにはいる人を「怪獣スター」、成田亨や高山良策など怪獣造形を担当したアーティストを「怪獣アーティスト」と命名。

上野動物園にいた象のインディラ嬢の鳴き声を合成したゴジラの雄叫びを作成した人を「怪獣音響効果マン」。さらに、「マグマ大使」の山浦弘靖、「悪魔くん」の高久進、円谷の金城哲夫などのシナリオライターを「怪獣作家」と名付けた。

また、昭和40年代の怪獣ブームを分析し、大人が子どもの趣味である野球、ボーリング、パチンコ、釣りを取り上げた代償として怪獣を授けたとしている。



tabloid_007 at 20:39|PermalinkComments(0)

September 08, 2007

具体的な夢をみたら実現した

DS4

『情報社会 きみたちのあした』企画構成・大伴昌司

 

 

 

 

 

 

DS1DS2

 

 

 

 

天才・編集者でありSF評論家でもあった大伴昌司氏の特集は、いつも少年マガジンの巻頭で楽しませてもらった。

この特集は1969年4月13日号で、DNAを操作し、動物を小型にする。新しいペットの誕生だ。ドライブイン病院。車から降りることなく治療が一瞬で終わってしまう夢の病院など子どもだけでなく、大人になったいまでもワクワクする想像の数々に大伴昌司氏の天才を感じざるを得ない。



tabloid_007 at 16:29|PermalinkComments(0)