内田勝

September 15, 2012

【奇っ怪紳士!怪獣博士!大伴昌司の大図解 展】一枚の絵は一万字にまさる!

IMG_0006_edited-1【奇っ怪紳士!怪獣博士!
    大伴昌司の大図解 展】
   ……一枚の絵は一万字にまさる……

2012年7月6日(金)〜9月30日(日)
弥生美術館
文京区弥生2−4−3
03-3812-0012 
 
 
 
 


この展示が実現されたことについては、弥生美術館のキュレイターであり、かつ大伴研究本「怪獣博士! 大伴昌司 ---「大図解」画報」(河出書房新社)の著者でもある堀江 あき子さんの不断の努力と大伴さんへの愛に敬意を表したいと思う。

思えば、展示までたいへんな道のりがあった。大伴さんの原画の散逸や震災による遅れもあった。(本当は昨年の7月予定だった)

そして、大伴昌司のお母様 四至本アイさん(102歳)のバックアップも大きかった。確か昨年の6月ごろ四至本アイさんのお宅(いまも残る大伴さんの仕事場の横)で対策会議をやったのが懐かしい。いずれにせよ、ここまで体系的に材料が揃った展示は珍しいのではないか。大伴さんは生前、自分の名前は歴史から消え去るだろうと予言していたのが唯一外れた予言だった。21世紀になっても現代アーティスト村上隆さんが、その功績をたたえる展示を行ったり、今回のこのような展示が行われるのだから。それにしても、36歳の急死(1973年)は天才ゆえと考えざるを得ない。

私の恩師でもある少年マガジンの天才編集長 内田勝(故人)さんとのコンビは、子ども向けマンガを万人のものにし、大伴さんとの巻頭ビジュアル・シリーズは、その後のビジュアルマガジンの先駆けにもなった。内田さんは、1971年に「ホットドックプレス」の創刊編集長を務め、そのコンセプトを定着させた。

今回、その原点となった「週刊少年マガジン」の巻頭ビジュアルの原画なども多数展示されている。どのアイデア、レイアウト、クリエイティブをみてもまったく色あせていない。むしろ歴史の長さで、その問題提起(未来社会への警告など)はよりアクチャルなものになっている。

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↑ 大伴さんが想像した怪獣の仕組み図版。限定クリュアファイルやポストカードとして弥生美術館で販売している。

大伴昌司(1936〜1973)は、1960年代後半から70年代前半にかけて、少年雑誌の巻頭グラビアや図解記事の企画・構成・レイアウトを手がけたほか、ミステリ雑誌・SF雑誌のライター、テレビ脚本、映画評論など、多彩なジャンルで才能を発揮した希代のクリエイター。

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↑ 大伴直筆によるレイアウト。


また大伴は、「ウルトラシリーズ」に登場する怪獣の性格や体内構造を詳細に設定し、少年雑誌で特集を組み、「怪獣大図解」「ウルトラ怪獣入門」等の書籍で紹介して怪獣ブームの火付け役となりました。当時彼は、"怪獣博士"の異名で多くの子供達に親しまれ、様々なメディアで寵児となっています。

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↑ 南村喬之さんや石原豪人さんの原画も展示!!

本展では、少年マガジンを中心とした少年雑誌で、怪獣や特撮映画、SF、恐怖文学、CM、劇画など多彩なテーマを先駆的なビジュアル構成で紹介し、多くの人に影響を与えた大伴流〈大図解〉の世界を、ラフスケッチや構想メモ、南村喬之や柳柊二、石原豪人、水氣隆義らの挿絵原画、当時の雑誌資料などからご紹介。

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↑ 展示のキャッチコピーにもなっている「一枚の絵は一万字にまさる」は、1970年1月号の「週刊少年マガジン」巻頭グラビアで、大伴昌司がつけたコピーでその後のグラビア時代(ビジュアルマガジン)の幕開けを宣言した。


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↑ 左:雑誌『COM』(虫プロ商事)1967年7月号「怪獣ブーム総まくり」この座談会では大伴さんを始め内田さん他 少年サンデーの小西編集長など出席している。

右:『ミステリマガジン』(早川書房)1966年7月号「アン*ルから逃げ出した男」(著 大伴昌司)

若き日に寄稿したミステリ同人誌や自ら編集発行した恐怖文学同人誌、本格的なSF入門書「SFの手帖」、日本SF作家クラブ事務局長として国際SFシンポジウム開催に尽力した際の資料など知られざる仕事も取り上げている。 
  
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記念写真は、左が四至本アイさん、右が内田勝さんの奥様。



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November 12, 2011

雑誌【idea (アイデア)】(2011年11月号):「20世紀 エディトリアルオデッセイ」 第3回『大伴昌司と内田勝の視覚革命』 編集 赤田祐一

雑誌アイデア表紙idea (アイデア) 2011年 11月号 [雑誌]
誠文堂新光社(2011-10-08)










今回、わが師である内田勝さんに関するインタビューをうけたので、ご報告まで。

ことの発端は飛鳥新社で辣腕をふるっている編集者 赤田祐一さんから夏の終わりに連絡があった。「大伴昌司と内田勝」の仕事をとりあげたいという。

ここ数年、村上隆がクールジャパンの元祖として大伴昌司さんを紹介して以来  特集が組まれることが多々あった。しかし、黒子である講談社の編集者であった内田勝さんと並列して特集したいというのは初めてだった。

さすがに赤田さんである。赤田さんは、かの有名な「磯野家の謎―「サザエさん」に隠された69の驚き」(飛鳥新社(1992-12-18))を手掛けた編集者で内田さんも生前より一目おいていた。そんな赤田さんの依頼を断る理由などない。

さっそく、半日かけたインタビューがはじまった。話は赤塚不二夫から宮内勝典まで不思議なリンクによって話は続いた。

その中で、私のパートは内田さんが考えるプロデューサー(編集者であり、キュレーター)7つの条件という形にまとめてもらった。他にも大伴内田のタッグがいかに70年代の子供や大人に影響を与えたかがわかる取材っぷり。

構成と文は赤田祐一さんとばるぼらさんが担当。「20世紀 エディトリアルオデッセイ」第3回『大伴昌司と内田勝の視覚革命』と題して下記のような内容である。

・ 大伴昌司と内田勝の世界  対談 赤田祐一 x ばるぼら
・ 二人の歩んだ全仕事
・ 母・四至本アイが語る大伴昌司 像
・ 「奇」の編集術 香川眞吾
・ 内田勝流、プロデューサー7つの条件 福田淳
・ 図解の系譜
・ 大伴昌司のレイアウト感覚「全部先割り、全部絵解き」 赤田祐一
・ 編集会議にみる内田勝の特質「編集 =考え抜くこと」赤田祐一

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ちょうど、年初に四至本アイさん(101歳!)とお会いして岡本太郎と幼少期の話など伺っていたので、今回の取材は感慨深いものがあった。

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さて最後に、内田勝さんが亡くなった2008年に作家の宮内勝典さんが東京新聞に書かれた追悼文を抜粋したいと思う。


「放射線(東京新聞」 2008年6月6日(金)夕刊

『巨人の星』『あしたのジョー』を生みだした名編集長・内田勝さんが他界した。「少年マガジン」を時代の象徴へ育てあげていった伝説の人だ。私が出会ったときはすでに出版社の重役であったけれど、ホーキングの宇宙論や進化論について、目を輝かせながら一晩中でも語りつづけるような人であった。無類の読書家で、広汎な知的好奇心にあふれるルネサンス的な精神があった。自分もそのように成熟してゆきたいと思わされる稀有な大人だった。

 私は師をもたないが、ひそかに私淑してきた人物が二人いる。その一人が内田さんであった。かれも不思議なやりかたで一人の作家を育ててくれた。私がニューヨークの片隅にこもって『ぼくは始祖鳥になりたい』という長編小説の連載をはじめると、毎月、段ボール箱いっぱいの書物を航空便で送ってくださった。日本語の本に飢えていること、資料が必要なことを察してくれたのだ。しかも私がなにをやろうとしているのか、小説のこれからの展開を鮮やかに見通した本ばかりであった。雪が降りしきる異国の地下室で、日本文学の文脈とは異なる小説を書きつづけながら、母国に一人だけは理解者がいると感じていた。航空便で太平洋を越えてきた書物は、ゆうに三百冊に及んだ。

 そんな無償の親交が二十数年つづいてきたが、先達はついに逝った。列車が駅を通り過ぎるように、一つの時代が遠ざかっていく。この私的な追悼を書き終えてから葬儀に出かける。『あしたのジョー』を愛読していた一人として野辺送りをしてこよう。

(宮内 勝典=作家)



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May 07, 2011

「水木しげる 妖怪大画報」:1960-70年代に描かれた『週刊少年マガジン』の巻頭口絵の世界

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著者:水木 しげる
講談社(2008-05-17)











水木しげる大先生が、「週刊少年マガジン」の巻頭グラビアで描いた1970年前後の稀少な仕事をまとめた本である。もちろん、当時の内田勝編集長と大伴昌司の企画である。「世界はこうしてはじまった!!天地創造」(1966.9)とか「人魚の秘島」(1969.9)とか、いまでもワクワクするようなイラスト満載である。

さて、当時から半世紀が過ぎ、2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震が起こった。この未曾有の出来事に対して、ニューヨークタイムズ(日曜版)が水木先生に挿絵の依頼をした。日本では入手困難だが、下記のようなイラストが掲載された。

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この"手"が絶望的だとして話題になったが、その後いろいろな人にこの絵を見せてどう思うか訊ねて回った。すると不思議なことにこの絵は見る人によって実に様々な感情を想起させることが分かったのだ。

よく見ると波の大きさに対して、"手"が異様に大きいことから、妖精ではないかとか、人がこの"手"を引っ張り上げられるかが試されるとか、さまざまだった。

きっと神様がテストしているのだと思う。


そして、もう一枚。私が企画した【SAVE MIND, 100 CREATION】にも描いて頂いた。

「生きなさい」っていうメッセージ。シンプル。力強い。

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その翌週の「週刊文春」で先生のコメントが掲載されていた。
「生きていれば どうにでもなる。(中略) 自分だけが生き残ったとしても悲観せずに生きるんです。死んだらいかんですよ。」

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なるほど、だから「生きなさい」なんだ。



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April 24, 2011

ムック本「リミックス少年マガジン大図解」(1992):内田勝と大伴昌司の点と線

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リミックス少年マガジン大図解 第1巻 (KCデラックス 286)
リミックス少年マガジン大図解 第2巻 (KCデラックス 286)
リミックス少年マガジン大図解 第3巻 (KCデラックス 286)

講談社(1992-04,06,08)

昨年2010年6月、講談社 天才編集者 内田勝さんの二回忌が終わり、奥様からそろそろ書斎の整理をしたいという依頼を頂いた。

早速、内田家のある石神井公園集合ということで、スタッフを招集した。ところが、当日はどうした訳か人身事故があって西武池袋線がビクとも動かない。遅れること2時間。ようやく集合した我々は、かつて週刊誌の取材で書庫で寛ぐ内田さんの額入り写真が飾ってある、その書庫の中を探索した。

さすがに書庫に入りきらないダンボールが70箱近くあり、さらにその書庫部屋の本、本、本である。まずは、仕分けするためにデジカメで棚ごとに背表紙を撮影していく。それを元にリストにしようと考えたのだ。

半日ががりで、ようやく作業も終わり帰途についた。翌日写真データをみて驚いた。書庫の前後だけ写真が写っており、残りはまったくデータがない!撮影しながら確認したのでそんなはずはないと何度も確認したがなかった。

不思議な目に見えない力によって、廊下に溢れたダンボールを倉庫に収納することができた。しかし、いまだに書庫の本はそのままだ。まだ持ち出さない方がよいのだろう。

ダンボールの中から、1992年に発売された大伴昌司が責任編集した週刊少年マガジンの巻頭グラビア特集のムック本が数多くでてきた。いま、それらをしみじみ眺めながら、先日 久しぶりに訪問した大伴昌司さんの仕事場のことを考えている。

↓ 「怪獣博士」の異名をもつ夭折した天才編集者 大伴昌司のお母様である四至本アイさんにお会いした。101歳でますますお元気! (2011.0422)

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May 29, 2010

"怪獣シゴトン"こと故 内田勝さんの蔵書整理:本の中にも記事があり...

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著者:塩沢 実信
販売元:広松書店
発売日:1982-01










2010年5月6日、ソニー・デジタルエンタテインメントが借りている川崎の倉庫に行き、天才編集者 内田勝(故人)の蔵書(ダンボール65箱分)の整理を行った。貴重な企画書や資料、著者からの献本やレア本、一般書籍の3つに区分けした。そして、一般書籍は古本屋に引き取ってもらった。未亡人によれば、内田さんは生前 本をゴミ扱いで捨てた若い時分の奥様を叱責したことがあったという。以来、本は必ず流通する形で処分する方針となった訳だ。約7千冊の一般書籍は今後も古本屋を通じて人々に流通する。それ以外の本については、引き続きソニー・デジタルで大切に保管する。

その中に上記の中央公論からダカーポなど、明治から昭和の名編集長21人のドラマをヒューマンドキュメントという形で取材した本があった。中には、「少年マガジンのモンスター」という章で内田勝さんも取り上げられており、中に古い新聞の記事が挟み込んであった。記事は2つあり、1つは、1983年12月24日付けの朝日新聞「当世人間気質 -編集長は語る-」ということで、雑誌『ミス・ヒーロー』の編集長になったばかりの48歳で内田さんのインタビューが掲載されていた。もう1つは、1983年5月31日付けの朝日新聞・夕刊「『劇画の星』暴走の末路」という梶原一騎氏のスキャンダル記事である。内田勝と梶原一騎...「巨人の星」でタッグを組み、一世を風靡してから20年後の話である。

そんな二人の記事が同じ本の中で更に30年の年月を経て、ワタシの手元にあるというのは、誠に奇なる縁である。

明日は、内田さんの三回忌である。入間にある「正法寺」に墓参りに行くつもりだ。

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October 25, 2009

堂々人生のススメ

directersDIRECTOR’S MAGAZINE NO.127
販売元:クリーク・アンド・リバー社
発売日:2009-10 

 

 

 






 

 

クリエイターの人材派遣などを生業としているクリーク・アンド・リバー社がこういう素晴らしい雑誌をだしているのは知らなかった。すべて偉人のインタビューを再構成している雑誌である。フォントだけの表紙が質実剛健な感じで良い。今月号は、内田勝(故人)さんが取り上げられている。

「伝説のつくり手たち」というシリーズ特集での登場だ。ここに書かれていることは内田さんの自伝や過去のインタビューなどからピックアップしているが、内田さんの全盛期の仕事を知る上でとても簡潔にまとまっている。

これを読んで思い出すのは、内田さんが大物ビジネスマンとは?という定義をいつもワタシを含め若い社員に教育してくださっていたことが思い出される。
 

1. よく食べよく呑む
2. 大きな声でしゃべる
3. ウソをつかない

よく、一緒に飲んでいると、この3番目が変わる。時に「コソコソしない」とか変わっていたのはご愛敬か。
 

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June 27, 2009

内田勝さんを偲ぶ会

Uchida_magazine 永遠『少年マガジン』

 

 

 







 

 

 

昨夜2009年6月26日、銀座コートヤード・マリオット銀座東武ホテル(旧銀座東武ホテル)で、内田勝さんを「偲ぶ会」が開かれた。藤子不二雄(A)先生、楳図かずお先生、永井豪先生、森田拳次先生など多数の方がお越しになった。
 

内田さんの生前の映像や写真を見ていると亡くなって1年も経ったなんて信じられない。三五館の星山社長の挨拶にあったが、人は二度死ぬ、と。一度は肉体の死、そしてもう一つは、二百年くらいたって皆の記憶から無くなった時に、二度目の死を迎える。逆にいえば、それまで内田さんはその偉業と共に我々の記憶の中で生きているのだ。



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May 10, 2009

ライバルが切り開くコミックメディアの世界

MAGAZINEサンデーとマガジン (光文社新書)
著者:大野茂
販売元:光文社
発売日:2009-04-17

 

 

 

 

 

NHKエンタープライズの大野茂さんが刺激的な本を出した。「サンデーとマガジン」。ここまでは普通。副題が「創刊と死闘の15年」とあるから、なかなか刺激的な内容である。さらに、今月の2009年 5月5日 NHK総合 『ザ・ライバル「少年サンデー・少年マガジン物語』でも同様のテーマを事実を基にしてフィクションの要素も加えた番組として制作された。

いまから、半世紀前 1959年3月17日に日本初の週刊少年マンガ誌として、「少年サンデー」(小学館)と「少年マガジン」(講談社)ともにに創刊された。つまり、大野さんが「死闘」と位置づけた期間は、準備期間の1958年暮れから数えると1973年までを指す。実は、もっとも両社が熾烈な戦いを展開していたのは、創刊時と1965-67年の2年間を指すのではないか。なぜなら、この期間に雑誌の損益分岐点(黒字化)である100万部への発行が射程内にあったからだ。ちなみに、先に達成したのがマガジンで、大伴昌司のウルトラ怪獣などの巻頭グラビア、「巨人の星」(1966年5月15日連載開始)の人気により、1967年1月8日号で達成。実は「天才バカボン」(1967年4月9日号開始) 「あしたのジョー」(1968年1月1日号開始)は、100万部達成後の連載開始なのである。

一方、サンデーは...大野氏の著書から引用。「当時(1966年後半)の平均で80-85万部刷って、返本もほとんどがなく、売上率も98%まで行っていたことがある」。その勢いで、小西編集長(当時)は、奇しくもライバル誌と同じ1967年の新年特大号で100万部の申請をするが、担当役員から広告収入の不足を理由に却下される。その後、小西氏のあとを継いだ高柳編集長(1967-69年)時代にも100万部を達成することがなかった。

この壮絶な「死闘」は、出版人としてコミックをひとつのメディアとして社会に受け入れさせるためにも商業的な成功が必要だった。それが達成できなければ、コミックは、ゾッキ本や貸本と同じ運命を辿っていたかもしれないのだ。だから、ライバルに追いつけ追い越せという戦いと同時に商売としてのコミックを成立させなければならなかった。

さて、その「死闘」の主がテレビ番組では架空の設定になっていたが、下記の歴代編集長一覧を見ていただければ明らかだが、この「死闘」を演じたライバルふたりは紛れもなく、サンデー=小西湧之助、マガジン=内田勝なのである。

『週刊少年サンデー』
豊田亀市(1959年 - 1960年)
木下芳雄(1960年 - 1963年)
喘水尾道雄(1963年 - 1965年)
小西湧之助(1965年 - 1967年) * 67年11月移動
高柳義也(1967年 - 1969年)

『週刊少年マガジン』
牧野武朗(1959年 - 1964年)
井岡秀次(1964年 - 1965年)
内田勝(1965年 - 1971年) * 71年6月移動

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ワタシもたいへんお世話になった内田勝さんの一周忌が今月の5月30日である。この時期に、内田さんの偉大さを改めて再確認することができ、また2009年現在、われわれ娯楽産業にかかわるものが、このコミックメディアの変遷を単なる過去の歴史にしないで、現在のアクチュアルなものとして捉えることが必要と思う。

余談: 藤子不二雄(A)先生のインタビューで、「オバケのQ太郎」のネーミングが安部公房の小説の登場実物「Q」からの由来ときき驚いた。



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April 11, 2009

一歩もあとに帰る心なし...芭蕉

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「コミックボックス」少年マガジン特集'99/1号

 

 

 

 

 

以前、といっても2007年1月にもブログで取上げたが、改めて読んでみた。以下、内田勝さんのインタビュー抜粋。

『 好奇心の一語に尽きます。「猟奇」や「偏奇」ではなく、自由で自然体のまま「珍奇」を楽しみ、「新奇」に心を踊らせる。なにか新しいこと、珍しいこと、この世に2つとないことを常に探し求める。具体的には、人に会う、活字を読む、音楽を聴く、映画やアニメを観る。旅をする。骨董を蒐める。酒を飲む。とにかく何かを徹底的にやることを通じて、自分以外の人と共感し合える場が広がるわけだから、これを"道"といってもいい。』

下記は、1970年1月号の「週刊少年マガジン」巻頭グラビアで、「1枚の絵は1万字にまさる」(コピー 大伴昌司) というグラビア時代を宣言した。

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March 18, 2009

内田勝と梶原一騎を結ぶ点と線

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日本郵便『週刊少年漫画50周年』

 

 

 

 

 

 

週刊少年マガジン、サンデーが昨日3月17日で創刊50周年を迎え、記念して切手シートが発売された。サンデーのラインナップをみると、「おそ松くん」著:赤塚不二夫、「まことちゃん」著:楳図かずお、「プロゴルファー猿」著:藤子不二雄(A) など少年向らしいラインナップが堂々とならぶ。一方で、マガジンはといえば、「タイガーマスク」「巨人の星」「空手バカ一代」「あしたのジョー」「愛と誠」など10作品のうち半分を梶原一騎 原作の劇画が占める。もちろん、「天才バカボン」著:赤塚 不二夫、「ゲゲゲの鬼太郎」著:水木しげる、などもある。考えてみたらすべて内田勝さんが編集長をやっていた時代の作品である。

思えば、昨年の今頃 内田さんと2009年の3月17日に向けた企画を精力的に話し合っていたことを思い出す。ああ、内田さん!今日という日を一緒に分かち合えなくて残念です! 内田さんが生きていたらきっと、ここ数年のコミックの在り方に関して一家言、茶目っ気たっぷりに語ってくれたはずである。

そして、この記念切手が発売されてもなお梶原一騎氏の偉業が正当に評価されず、全集も発売されていないことを一緒に憂いてくれたと思う...

合掌



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March 04, 2009

編集者は社会を編集する

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BRUTUS (ブルータス) 2009年 2/1号 [雑誌]
販売元:マガジンハウス
発売日:2009-01-10

 

 

 

 

知人に教えてもらいブルータスを購入。「ブルータス大学開講」ということで講師10人の特別授業の特集号てある。

その中のひとり、いとうせいこうさんの2008年10月22日に行われた近畿大学での「笑いとメディアリテラシー」講義が掲載されている。基本的には、雑誌作りの基本や、覚えておきたい偉大な編集者ビック3の紹介が主だったのだが、最後に "忘れられない、もうひとり" ということで、我が恩師 内田勝さんを取上げていた。いとうさんにとって内田さんは、講談社時代の大ボスであった。

4年前に内田さんの誘いで、いまは無くなった西麻布の「うまや」でいとうさんを紹介してもらった。実は、いとうさんにとってもこれが内田さんとの最後の晩餐だったそうだ。

その当時、内田さんが「これから携帯コンテンツビジネスをやる」という話をしたとき、いとうさんは「正直、鈍ったな」と思ったそうだが「今になって、やっぱり凄い先見の明があった」と述懐している。内田さんが雑誌だけでなく、人間関係も含めて「社会を編集する」視点をもっていた、とする見方にワタシも深く同感である。

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February 22, 2009

マンガに登場する家の間取りは普通

MADORI 名作マンガの間取り
著者:影山 明仁
販売元:ソフトバンククリエイティブ
発売日:2008-07-26

 

 

 

 

この手の本のルーツはすべて1992年に飛鳥新社の腕利き編集者だった赤田祐一氏が作った「磯野家の謎―「サザエさん」に隠された69の驚き」からはじまっている。あくまで間取りだけなので取上げられているコミックを読んでいないと面白さ半減なのである。

余談だが、赤田さんとは内田勝さんが生前 紹介してくれ会ったことがある。弟さんは大学のゼミの同級生だった奇縁もある。



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January 04, 2009

70年代で生きている2009年の事情

nagataniマンガ編集者狂笑録 (水声文庫)
著者:長谷 邦夫 (ながたにくにお)
販売元:水声社
発売日:2008-04

 

 

 

 

長谷邦夫さんは、長年赤塚不二夫さんのブレーンをやっており、自身でもパロディマンガを描くマンガ家である。その長谷さんが、戦後漫画史を支えた名編集者を紹介している。「トムとジェリー」という項目で、29歳で「週刊少年マガジン」編集長に大抜擢された内田勝さんとフクヘンの宮原照夫さんのコンビについて記している。編集長になる前後と「巨人の星 」を生むまで、100万部到達記念で富士山登頂あたりまで描いている。

これを読んで思い出した。当時、内田さんは疲労から両目の瞼が開かないほど困憊していたが、ほとんど杖と酸素ボンベを頼りに富士山に登りきった。その顔があまりにも壮絶だったので、後にジョージ秋山さんが内田さんの風貌を『アシュラ 』のモデルにしたという話だ。内田さんは、ジョージ秋山さんの息子さん命君の命名者でもある。それくらいの関係なのである。

そのジョージ秋山さんが1970年同時期に「少年サンデー」に描いた『銭ゲバ』が今度 日テレでドラマ化される。我々はまだ偉大な70年代のクリエイティブを超えられないでいる。頑張らねば。

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November 30, 2008

天才 編集者は何を思う

UCHIDA戦後名編集者列伝―売れる本づくりを実践した鬼才たち

 

 

 

 

 

故 内田勝さんの奥様に頂いた本。著者の櫻井秀勲さん(東京墨田区生れ)は、31歳で「女性自身」編集長になり。発行部数147万部という、当時の新記録をつくる。以後、「微笑」「新鮮」「ラ・セーヌ」など、すべて女性誌の編集にたずさわり、女性心理、女性の生き方(恋愛、セックス、結婚、ビジネス)のマスターとなる。内田さんから生前よくお名前をお聞きしていた。
 

現在は、ウーマンウェーブの会長をされている。



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October 26, 2008

ワタシと内田勝を結ぶアマゾンの素敵

UCHIDA-1これでいいのだ14歳。
町の声はウソ
「奇」の発想

 

 

 

 

嬉しい繋がりを発見。ワタシの新刊『天才バカボン公認副読本 これでいいのだ14歳。 ~バカボンパパに学ぶ14歳からの生き方哲学100~』のアマゾン紹介画面で、アマゾンのリコメンド機能により、(この商品を買った人は、こんな商品も買っています)というコーナーに、前作「町の声はウソ (サテマガBOOKS)」と我が恩師 内田勝さんの「「奇」の発想―みんな『少年マガジン』が教えてくれた」が推薦される。

どういう仕組みか分からないが、あるいはワタシが見た日だけかもしれないので、スナップショットを撮っておいた。この人的つながりを機械的に表現してくれているとしても嬉しい。ありがとうアマゾンくん。



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