May 10, 2009
ライバルが切り開くコミックメディアの世界
サンデーとマガジン (光文社新書)
著者:大野茂
販売元:光文社
発売日:2009-04-17
NHKエンタープライズの大野茂さんが刺激的な本を出した。「サンデーとマガジン」。ここまでは普通。副題が「創刊と死闘の15年」とあるから、なかなか刺激的な内容である。さらに、今月の2009年 5月5日 NHK総合 『ザ・ライバル「少年サンデー・少年マガジン物語』でも同様のテーマを事実を基にしてフィクションの要素も加えた番組として制作された。
いまから、半世紀前 1959年3月17日に日本初の週刊少年マンガ誌として、「少年サンデー」(小学館)と「少年マガジン」(講談社)ともにに創刊された。つまり、大野さんが「死闘」と位置づけた期間は、準備期間の1958年暮れから数えると1973年までを指す。実は、もっとも両社が熾烈な戦いを展開していたのは、創刊時と1965-67年の2年間を指すのではないか。なぜなら、この期間に雑誌の損益分岐点(黒字化)である100万部への発行が射程内にあったからだ。ちなみに、先に達成したのがマガジンで、大伴昌司のウルトラ怪獣などの巻頭グラビア、「巨人の星」(1966年5月15日連載開始)の人気により、1967年1月8日号で達成。実は「天才バカボン」(1967年4月9日号開始) 「あしたのジョー」(1968年1月1日号開始)は、100万部達成後の連載開始なのである。
一方、サンデーは...大野氏の著書から引用。「当時(1966年後半)の平均で80-85万部刷って、返本もほとんどがなく、売上率も98%まで行っていたことがある」。その勢いで、小西編集長(当時)は、奇しくもライバル誌と同じ1967年の新年特大号で100万部の申請をするが、担当役員から広告収入の不足を理由に却下される。その後、小西氏のあとを継いだ高柳編集長(1967-69年)時代にも100万部を達成することがなかった。
この壮絶な「死闘」は、出版人としてコミックをひとつのメディアとして社会に受け入れさせるためにも商業的な成功が必要だった。それが達成できなければ、コミックは、ゾッキ本や貸本と同じ運命を辿っていたかもしれないのだ。だから、ライバルに追いつけ追い越せという戦いと同時に商売としてのコミックを成立させなければならなかった。
さて、その「死闘」の主がテレビ番組では架空の設定になっていたが、下記の歴代編集長一覧を見ていただければ明らかだが、この「死闘」を演じたライバルふたりは紛れもなく、サンデー=小西湧之助、マガジン=内田勝なのである。
『週刊少年サンデー』
豊田亀市(1959年 - 1960年)
木下芳雄(1960年 - 1963年)
喘水尾道雄(1963年 - 1965年)
小西湧之助(1965年 - 1967年) * 67年11月移動
高柳義也(1967年 - 1969年)
『週刊少年マガジン』
牧野武朗(1959年 - 1964年)
井岡秀次(1964年 - 1965年)
内田勝(1965年 - 1971年) * 71年6月移動
ワタシもたいへんお世話になった内田勝さんの一周忌が今月の5月30日である。この時期に、内田さんの偉大さを改めて再確認することができ、また2009年現在、われわれ娯楽産業にかかわるものが、このコミックメディアの変遷を単なる過去の歴史にしないで、現在のアクチュアルなものとして捉えることが必要と思う。
余談: 藤子不二雄(A)先生のインタビューで、「オバケのQ太郎」のネーミングが安部公房の小説の登場実物「Q」からの由来ときき驚いた。