November 12, 2011
雑誌【idea (アイデア)】(2011年11月号):「20世紀 エディトリアルオデッセイ」 第3回『大伴昌司と内田勝の視覚革命』 編集 赤田祐一
idea (アイデア) 2011年 11月号 [雑誌]
誠文堂新光社(2011-10-08)
今回、わが師である内田勝さんに関するインタビューをうけたので、ご報告まで。
ことの発端は飛鳥新社で辣腕をふるっている編集者 赤田祐一さんから夏の終わりに連絡があった。「大伴昌司と内田勝」の仕事をとりあげたいという。
ここ数年、村上隆がクールジャパンの元祖として大伴昌司さんを紹介して以来 特集が組まれることが多々あった。しかし、黒子である講談社の編集者であった内田勝さんと並列して特集したいというのは初めてだった。
さすがに赤田さんである。赤田さんは、かの有名な「磯野家の謎―「サザエさん」に隠された69の驚き」(飛鳥新社(1992-12-18))を手掛けた編集者で内田さんも生前より一目おいていた。そんな赤田さんの依頼を断る理由などない。
さっそく、半日かけたインタビューがはじまった。話は赤塚不二夫から宮内勝典まで不思議なリンクによって話は続いた。
その中で、私のパートは内田さんが考えるプロデューサー(編集者であり、キュレーター)7つの条件という形にまとめてもらった。他にも大伴内田のタッグがいかに70年代の子供や大人に影響を与えたかがわかる取材っぷり。
構成と文は赤田祐一さんとばるぼらさんが担当。「20世紀 エディトリアルオデッセイ」第3回『大伴昌司と内田勝の視覚革命』と題して下記のような内容である。
・ 大伴昌司と内田勝の世界 対談 赤田祐一 x ばるぼら
・ 二人の歩んだ全仕事
・ 母・四至本アイが語る大伴昌司 像
・ 「奇」の編集術 香川眞吾
・ 内田勝流、プロデューサー7つの条件 福田淳
・ 図解の系譜
・ 大伴昌司のレイアウト感覚「全部先割り、全部絵解き」 赤田祐一
・ 編集会議にみる内田勝の特質「編集 =考え抜くこと」赤田祐一
ちょうど、年初に四至本アイさん(101歳!)とお会いして岡本太郎と幼少期の話など伺っていたので、今回の取材は感慨深いものがあった。
さて最後に、内田勝さんが亡くなった2008年に作家の宮内勝典さんが東京新聞に書かれた追悼文を抜粋したいと思う。
「放射線(東京新聞」 2008年6月6日(金)夕刊
『巨人の星』『あしたのジョー』を生みだした名編集長・内田勝さんが他界した。「少年マガジン」を時代の象徴へ育てあげていった伝説の人だ。私が出会ったときはすでに出版社の重役であったけれど、ホーキングの宇宙論や進化論について、目を輝かせながら一晩中でも語りつづけるような人であった。無類の読書家で、広汎な知的好奇心にあふれるルネサンス的な精神があった。自分もそのように成熟してゆきたいと思わされる稀有な大人だった。
私は師をもたないが、ひそかに私淑してきた人物が二人いる。その一人が内田さんであった。かれも不思議なやりかたで一人の作家を育ててくれた。私がニューヨークの片隅にこもって『ぼくは始祖鳥になりたい』という長編小説の連載をはじめると、毎月、段ボール箱いっぱいの書物を航空便で送ってくださった。日本語の本に飢えていること、資料が必要なことを察してくれたのだ。しかも私がなにをやろうとしているのか、小説のこれからの展開を鮮やかに見通した本ばかりであった。雪が降りしきる異国の地下室で、日本文学の文脈とは異なる小説を書きつづけながら、母国に一人だけは理解者がいると感じていた。航空便で太平洋を越えてきた書物は、ゆうに三百冊に及んだ。
そんな無償の親交が二十数年つづいてきたが、先達はついに逝った。列車が駅を通り過ぎるように、一つの時代が遠ざかっていく。この私的な追悼を書き終えてから葬儀に出かける。『あしたのジョー』を愛読していた一人として野辺送りをしてこよう。
(宮内 勝典=作家)