March 20, 2010
レンピッカは、絵を描き、写真を撮らせ、世界3周した。
美しき挑発「タマラ・ド・レンピッカ」展
2010.0306-0509
Bunkamura ザ・ミュージアム
エコール・ド・パリ全盛の1920年代、タマラ・ド・レンピッカはパリで奔放な生活をおくった。パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、アンドレ・ジッドとは知り合いだった。レンビッカは、車を乗り回し、両性愛者であり、プロのカメラマンに自分のポートレートを無数に撮らせた。そういう時代の先端をいくカッコイイ女性の描いたポスト・モダンな絵画展。その背景から個々の作品よりもレンビッカの生き方に焦点をあてた展示構成でわかりやすかった。また、キービジュアルの強烈な緑の女性は、レンピッカの不仲の娘キゼットである。左下もキゼット幼少期。右は、ナボコフの「ロリータ」の表紙にしばし使用された作品。
タマラ・ド・レンピッカ(1898-1980)はアール・デコの画家。ポーランドワルシャワに生まれる。父は弁護士、母はポーランドの上流階級出身、裕福な家庭に生まれる
1912年 両親が離婚する、叔母のいるロシア首都サンクトペテルブルクに行く
1913年 15歳の時結婚するが持参金目当てだった
1917年 ロシア革命が起き、夫婦でデンマークのコペンハーゲン、イギリスのロンドンを転々とし、最後は、多くの白系ロシア人が逃げのびたフランスのパリに落ち着く。暮らしは次第に苦しくなった。
1919年 娘キゼットが生まれる。家計を立て直すため、彼女は画家になる決意をする
1923年 主要サロンに作品を出品するまでになり、スタイリッシュに服を身にまとい、車も購入するほど稼いだ。ボヘミアン的な芸術家人生を謳歌し、さらにはパリの上流社会にまで上り詰めた。ピカソは「統合された破壊の斬新さ」と語った
1925年 最初の個展がイタリアのミラノで催される。まもなく同時代人の中で最もファッショナブルな肖像画家となる。公爵夫人、大公、名士たちを描き、一流のサロンで展示される
1927年 肖像画1枚5万フランだった(2000ドルに値するが、当時は現在の10倍の貨幣価値があったと思われる)
1925年 自画像を描く。『オートポートレート(緑色のブガッティに乗るタマラ)』がそれで、ドイツのファッション雑誌『ダーメ』の表紙を飾った
1927年 彼女は生まれてはじめて大きな賞を受賞する。フランスのボルドー国際美術賞の金賞で、受賞作品は『バルコニーのキゼット』だった
1928年 レンビッカの奔放な生活に振り回された夫は離婚を申し出た。
娘のキゼットとも滅多に会わなかった。キゼットは全寮制学校に入れられた。
母娘の仲は悪かったが、キゼットをモデルにした絵が彼女の代表作になっているのは皮肉である
1928年 ラウル・クフナー男爵の依頼で彼の愛人の肖像画を描くが、その後彼の愛人になり、永年パトロンとなる。
1929年 ピッツバーグのカーネギー美術館での個展開催のため初めてアメリカ旅行をする。個展は成功した
1930年 スペイン王アルフォンソ13世やギリシア王妃エリサヴェトの肖像画を描いている。博物館はタマラの作品を収集しはじめた
1933年 ジョージア・オキーフ、サンチャゴ・マルティネス・デルガード、ウィレム・デ・クーニングらとの仕事でシカゴに赴く。同じ年、タマラはクフナー男爵と正式に結婚。男爵夫人という社会的地位も手に入れた
1939年 夫婦はアメリカ合衆国で「長期休暇」を始めた。住まいはビバリーヒルズ。映画監督キング・ヴィダーの家の向かいだった。彼女は「筆を持つ男爵夫人」となり、ハリウッドスターのお気に入りの芸術家になった
1941年 ナチ占領下のパリにいた娘キゼットをリスボン経由で救い出した
1943年 夫婦はニューヨークに居を移す。スタイリッシュな生き方、社会活動は続けたが、この頃には画家としての名声はもはや失われていた
1962年 イオラス画廊で新作を出展したが不評で画家を引退。同年、夫が亡くなると所持品を売り払い船で3度の世界一週旅行をした。
その後は、キゼットとその家族のいるテキサス州ヒューストンに移り住む
1973年 若い世代がレンピッカの芸術を再発見し、熱烈に支持した。1973年の回顧展も大好評だった。この再発見により、いまのレンピッカの評価が後世に残ることになる。ジャック・ニコルソンはコレクターとして有名
1978年 タマラはメキシコのクエルナバカに移住する。年老いた世界中の仲間と少数の若い貴族に囲まれて暮らすためだった
1980年3月1日 永眠。遺灰は、ジョヴァンニ・アグスタ伯爵によって、ポポカテペトル山に撒かれた